東レには独自開発のナイロンがあったが、戦後間もなく、アメリカ・デュポン社との間に特許侵害の争いが生じていた。東レは、本格生産を始めるにあたって、デュポンとの技術提携をすることが最善と判断、昭和二六年六月に同社と正式に契約した。このナイロンは、昭和二六年には靴下、二七年には衣料用織物に進出した。国民の衣料水準が、量的に戦前程度に回復したのも、昭和二七年とされている。この時期は、「ものは作れば売れた」。ガチャマンヘ。コラセン」の時代、マーケティング不要の時代であったが、繊維・衣料の世界では、昭和二七年から、過剰生産による繊維相場暴落、綿紡の操短(操業短縮)も始まった。一九五五年(昭和三〇年)度を対象にして発表された一九五六年(昭和三一年)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」といい切ったのは、鉄鋼、石炭、繊維などのわが国経済の基幹産業が戦前の生産水準に達し、さらにそれを追い越し出したからである。事実、日本経済は技術革新に支えられて、大量生産、大量販売の道を突っ走ることになる。この高度成長期は、一九五六年から東京オリンピック(一九六四年・昭和三九年)までの前期と、その「明」の部分だけでなく「暗」の部分を表し始めた一九六四年以降から第一次石油危機の一九七三年(昭和四八年)九月までの後期に分けられる。高度成長の「暗」の部分とは、たとえば、イタイイタイ病の発生(一九五五年)である。これはその後の公害反対運動の広がりのきっかけを作った。